夜鷹と苦参

よたかとくらら

 夜鷹(よたか)は女生徒に可愛がられるような少年だった。
 肩も胸も薄っぺらで、艶めいた髪も猫の毛のように細かった。白い襟元から見える首なんかは、いちまいの紙を立てて横にひけば、すぐに破けてしまいそうな薄い皮膚のように見えた。
 彼は口数が少なくて、まわりの人間の言葉にいつも頷いていた。遊びに来いと言われればついていくし、褪せた藍白(あいしろ)の色をした日誌を押し付けられれば困ったように笑いながらそれを受け取った。
 苦参(くらら)はそんな夜鷹を見ると吐き気がした。
 苦参の兄弟はみな、彼女より背が高く、焚き木の束ねたものを拾い、それを二・三コは余裕で胸に抱けるような体つきだった。もちろん苦参は己の兄弟が、同い年の少年たちよりも倍はたくましいのだということは理解していた。夜鷹と彼らを比べるのは反則であろうことも分かっていた。
 そのうえ、苦参は心が狭いような人間ではないという自負があった。末弟が己は同性愛者かもしれぬと真夜中に相談してきたときだって、決して取り乱したりする様子を彼に見せなかった。次男にはたいそう冷やかな言葉を浴びせられたらしく、末弟の目蓋は腫れていた。苦参は涼やかな夜風に吹かれながら、愛する弟の自尊心に傷のつかないような声をかけたつもりだった。
 だが、下の学年の一番小さくて幼稚な男子よりも、はるかに女々しい身体と精神を持つ夜鷹のことだけは、なぜかどうしても許せなかった。夜鷹を見ると、心の芯から罵詈雑言が溢れそうになるのだった。
 だから、苦参は同級にいる夜鷹をできるだけ避けて学校生活を送っていた。苦参は自分の精神を安定させ、衛生することが得意だった。

 苦参はその日、給食を配る係だった。終業の鐘が鳴ると、誰よりも早く手を洗って、白い前掛けを腰に付け、火斗(アイロン)を丁寧にかけた三角巾を頭に結んだ。昼食を持参する生徒はそれぞれの弁当箱を机の上に置いて、配膳が済むまで友人の背にとびかかって遊んでいた。
 苦参はどんどん筍(たけのこ)の混ざった白い米を、流れてくるアルミの皿に乗せていった。しばらくは怒涛の忙しさに、目の前の皿だけを見て飯を盛り付けていたが、ふと、四角い盆を握る白くて細い指が目に留まった。苦参はそこでようやく顔をあげた。――白い指の持ち主は、夜鷹だった。彼は給食を食べる生徒だった。
 もちろん、苦参はそれを知っていた。学年が上がって一緒の学級になってから、彼が人に揉まれながらなんとか列の中にいるのを何回か見ていた。そして、いつも夜鷹は飯を盛る係の生徒に微笑みかけて、量を少なくしてもらっているのも、知っていた。
 今、苦参の前に立った夜鷹もやはり、その薄い花弁のような笑みを向けてきた。
 そのとき――苦参は頭の奥で、どろりと、溶岩が溢れたのを感じた。
 苦参は杓文字(しゃもじ)をしっかりと掴み、腕をできるかぎり大きくしならせて、ずっしりと水を吸っている飯を抱きこむように掬って、夜鷹の皿へと乱暴に置いた。同級で一番飯食らいの男子がおかわりを遠慮するかとも思われる、山のような飯がそこに盛られていた。
 夜鷹は盆を持ったまま、色の薄い眼をわずかに見開いていた。順番を待っていた女生徒たちが、その光景に息を飲むのがわかった。
「なに?」
 と苦参は突っぱねるように、立ち尽くした夜鷹へ言った。
「はやく進んでくれないと、後の人が閊(つか)えるんだけど」
 夜鷹は、
「なんでもない。ありがとう」
 と空虚な笑みを残して、かきたま汁の食缶のほうへ流れて行った。

 昼食の終了を告げる鐘が鳴った。苦参は自分で早起きして作った弁当を早々に平らげ、すっかり空になった共用の巨大な容器を片していた。昼休みの間のうちに、食缶を一階下の配膳室に運ばねばならない。それは配膳係の仕事の一つであった。
 給食を食べる生徒は苦参に急かされながら、食べ終わった皿を籠の中へ入れていった。この時間になると、配膳係は皿を数え、重い籠を抱えながら配膳室へ向かう準備をし始める。食べ終わるのが遅い生徒も、貴重な昼休みの時間が削れることを恐れて無理にでも胃の中へかっこむからだ。
 ――だが、今日は一枚皿が足りない。
 教室の隅では、黙々と飯の塊を箸で崩している夜鷹の姿があった。
 苦参と同じ配膳係である梟(ふくろう)が、もどかしそうな顔をしていた。彼は天文学部の部長だった。
「梟、あんた、昼休みに部活の用事があるんでしょ」
 苦参は腕を組んで、夜鷹のほうに顔を向けたままそう言った。
「そうだけど」
 と、梟は口をすぼめた。
「あんたたちは夜鷹に甘すぎるのよ」
 苦参はずんずんと行進して、夜鷹の机の前に来た。
 夜鷹のほうは、手元が暗くなったことでようやく苦参に気付いたようで、はっと顔を上げた。
 まるで女郎のような、媚びるような上目遣いだわ――苦参は心中で毒づいた。
 苦参は夜鷹の細い指先に絡まっている箸をひったくり、まだ飯が山盛りの盆を乱暴に掴んだ。そのときに、盆の上に乗っていた皿たちがガラガラとぶつかってそれなりに大きな音を立てたので、教室にいる者が皆、苦参と夜鷹を見た。視線がスポット・ライトのように当たっているのを苦参は感じていた。
「夜鷹だけが特別だなんて思ってるの? ばかばかしい。食べるのが遅い子だって頑張っているんだから、あんたもそうするのが普通でしょ」
 苦参は夜鷹が茫然としているのを無視して、見せつけるように、残った飯を空だった残飯入れにぼとり、と落とした。
「とろいのよ」

 その日から、徐々に何かの流れが変わったようだった。
 まず、苦参以外の配膳係たちが、夜鷹の昼食の量を少なくするのを止めた。苦参は夜鷹のことをできるたけ無視しようと努めていたので、それ以外のことはよく分からなかった。だが数ヵ月もして、空がよく泣く雨月の頃になると、夜鷹のまわりにはちやほやした笑みを浮かべる生徒は誰もいなくなっているのは感じていた。
 そして、今、苦参は焼却炉の前で泥まみれになっている夜鷹の姿を見下ろしていた。夜鷹は痣だらけの腕を押さえながら、茫然と座り込んでいた。降り出した雨が容赦なく彼の体を打っていた。
「ばかじゃないの」
 竹の骨を通した浅葱(あざぎ)の番傘を持ちながら、苦参は吐き捨てるように言った。負傷している夜鷹への哀れみなど微塵も感じていなかった。先程、夜鷹が同級の男子生徒たちに髪を引っ張られ、殴られ、首を踏まれてじわじわと地面に押し付けられたときでさえ、苦参は冷静にそれを観察していた。終始、人形のように、されるがままの夜鷹を瞳に映していた。
「抵抗すればよかったのよ」
 一拍(いっぱく)おいて、夜鷹の小さな声が聞こえる。
「しないよ、そんなの」
 雨音に混ざって聞き取りにくい声だった。
「抵抗したら、僕がここにいるってばれてしまうだろ」
「なに言ってんの」
「僕は透明でいたいんだ。薄っぺらで、どこにもいなくて、どこにもいる、そんな人になりたいんだ」
「それ、先月書いた”将来の夢”の作文に書いたの?」
 苦参が嗤うと、――夜鷹も魂の抜けたような笑みを返した。泥と濡れた前髪が白い額にへばりついていた。
「書くわけないじゃないか。だって、そんなことをしたら、目立ってしまうだろ」
「目立ちたくないのね」
「そう」
「だからいつもばかの一つ覚えのように、意味のない笑いを振りまいている」
「そう」
「意思もなく、波を立てず」
「そう」

「気持ち悪い」

 苦参は心の底から思った言葉を吐き出した。
「僕もそう思う」
 夜鷹はまた何の意味もなさぬ微笑みを湛えていた。
「笑わないで、殴りたくなる」
「……苦参さんは、本当はそういうことを思っていたんだよね」
 苦参は、突然夜鷹の声で名前を呼ばれたことに狼狽えた。
「苦参さんは、僕のことを気持ち悪いって思ってる。今まで隠してたつもりみたいだったけど、言われなくても僕には分かってたよ。幽霊みたいな僕を生理的に拒否してて、僕の心なんて毛頭理解したくもなくて、同じ教室にいるだけで吐き気がしてて、少しでも姿を見てしまうと苛々したんだよね」
 図星だった。この脆弱な少年が苦参自身より良く分析できていることに、一瞬打ちのめされた。
 苦参の口はようやく「だから、なんなの」とだけ言えた。
「苦参さんは誰とでも仲良くなれるし、皆を纏めることもできるし、とても優しい。でも、心の奥では、本当は、僕をめちゃくちゃにしてやりたかった」
 夜鷹は笑っている。笑っている。
「あんなに素敵な笑顔を振りまきながら、できることなら気持ち悪い僕を消してやりたいさえと思ったでしょう。そして、そんなどろどろとした殺人犯のような部分を持つ自分が嫌いだったんでしょう」
 苦参は瞬きせずに夜鷹を見た。指が真っ白になるほどに、傘を強く握りしめた。
「でもうまく隠していた。――あの配膳係の日までは」

 苦参は傘をたたんで、夜鷹の横っ面に振り下ろしていた。

「なに言ってるの、わかったふうなことをぺらぺらと」
 苦参は肩で息をしているのに、今更気付いた。
 見下ろした夜鷹の頬はぱっくりと切れていた。深い裂け目から血が溢れ、真っ赤な血が夜鷹の薄汚れたシャツにぼたぼたと落ちた。
 殴られた衝撃で四つん這いになった夜鷹は、凄まじい勢いで苦参に顔を向けた。その顔は、笑うのを止めていた。
「君のせいだ」
 夜鷹は憤怒していた。淡い印象だと思っていた顔が夢だったように、感情を剥き出しにした顔は、鬼のようだった。
「どうして、我慢できなかったんだ。僕は何もしなかったのに」
 苦参は慄(おののい)いたが、遅かった。

「君が卒業まで我慢してくれたら、僕はあのままでいられたはずだったんだ」


 家に帰ると、苦参は血のついた傘を見咎められた。
 長兄は苦参を問いただし、事を見極めると冷静に叱った。長兄は夜鷹の家に電話をして、苦参が菓子折りを持って謝罪をしに行く旨を伝えた。最初は長兄も連れだって行こうとしていたが、それは苦参が拒否した。保護者に連れられ、頭を揃えて謝罪することは苦参の自尊心が許さなかった。幸い、長兄は仕事の帰りでひどく疲れており風邪もひいていた。うつるといけないと云うことで、後日また改めて伺うと言った。苦参は長兄の信頼も勝ち得ていたし、彼女にとって長兄はほとんど亡き父の代理のようなものであったので、彼の顔に泥を塗るような事はしないつもりであった。
 かくして、苦参は暗い夜道を兄の傘を差してとぼとぼと歩き、夜鷹の家に辿り着いた。擦り硝子の嵌められた戸を叩くと、麦酒(ビール)の匂いを振り撒く美しい女が出てきた。胸元はだらしなく開かれて、艶のある肌を妖しく晒していた。これくらいの歳になると、家の中でも紅をひくのだろうかと苦参は思った。少し若いが、年齢を察するに夜鷹の母親であろう。
 苦参はきちんと謝罪をした。もちろんそれは、形式的なものではあったが。
 しかし、それを聞いた女は何の感慨もなさそうに苦参を見つめて、謝罪が済めば、人の好さそうな笑顔で「気にしないでちょうだい」と言った。
「夜鷹君はいますか」
 苦参が訪ねると、女は押し黙った。
「ここは、夜鷹君のお宅ですよね?」苦参は家を間違ったかと一瞬不安になった。
「ええ。でも、夜鷹はいないのよ」
 苦参は首を傾げ、もう一度問うた。
「でも、夜鷹君のお宅ですよね? もしかして、学校からまだ戻っていないのですか? それとも、傷の具合が悪いですか?」
 女は心底気分が悪いと云う顔をした。苦参は大人からそんな顔をされるのは初めてだったので幾分怯んだが、夜鷹に直接謝ることを長兄と約束したので引き下がらない。
 また二言三言やりとりをすると、女は観念したように無言で一旦部屋へと戻っていった。
 しばらくすると、夜鷹が出てきた。やはり居るではないか、と苦参は思った。もしかすると、夜鷹は苦参に会いたくなくて、母親に居留守を頼んだのかもしれない。
 苦参は、焼却炉の前で見せた鬼の顔をした夜鷹が出てくるかとも思ったが、杞憂のようだった。彼は空き瓶の後ろにできる半透明の陰のような、曖昧な佇まいをしていた。夜鷹はいつも小奇麗な学生服を着ていたが、家では裾の余った洋服を着ているようだった。頬を縦に包帯で巻いていた。まだ血が滲んでいる。
「怪我、大丈夫?」
 苦参はこのとき始めて夜鷹に対して心配とかいう感情を寄せた。頬の傷を受け止めるには夜鷹はあまりに脆弱そうだった。そして、今にも亡霊と化しそうな昏い瞳をしていた。
「だ」
 と喋りかけた夜鷹だったが、すぐに喋るのを止めた。口を開くと頬の傷が痛むことを今理解したように驚いていた。夜鷹は顔をしかめながら、もう一度その薄い唇を開いた。
「帰ってくれ」
 夜鷹の意思だった。
 苦参はむっとして、菓子を彼の胸に乱暴に押し付けて、踵を返した。後ろで戸の閉まる音がした。夜鷹のくせにあの態度は何様のつもりなのだ、と思った。苦参は大股で歩いた。
 夜鷹の一軒家を少し離れたところまできて、苦参は水たまりを蹴りつつ、帰路についていた。長兄との約束を果たしたことのみに安堵していた。謝ることはできなかったが、それは夜鷹が拒否したからよいのだ。と苦参は勝手に結論付けた。
 そのとき、男の引き攣った悲鳴が聞こえた。
 苦参は驚いて振り返った。暗雲の下に夜鷹の家がまだ見えた。夜鷹の家の屋根の周りだけ、ひどく暗く見えた気がした。
 ――今のは、夜鷹、の声だったような。
 苦参はそれを理解すると、傘を放り出して弾かれたように走りだした。二度と振りかえらなかった。
 家に着く頃にはびっしょりと服が貼りついていて、長く伸ばした髪もほつれて結構な水分を吸っていた。気に入りの靴は泥まみれになっていた。苦参はどれもこれも夜鷹の責任とした。苦参の体は都合良く出来ており、夜鷹の家の近くで感じた鬼気も恐怖も、走った後の気持ち良い疲れがそれらを全部押し流していた。
 風呂上りに自室に戻る前、末弟の部屋に寄って行った。
 末弟は勉学に長けていた。温厚で実直な彼は、姉をよく慕っていた。
「こんな雨の日に、傘を差すのを忘れたの?」
 苦参はからかうように言う末弟の額を小突いた。
「全部夜鷹のせいよ」
 苦参は誰ともなしに吐き捨てた。
 末弟がまた小難しい本を読んでいるのを覗きこんで、彼は図書館の本を全て読みつくすに違いないと空想した。
 末弟は姉の顔を見上げて、少し驚いたような、本の世界から未だ覚めやらぬ顔をしていた。
「夜鷹って、遊女のこと?」

 苦参と云う名は、マメ科の植物の名からそのままとったものらしかった。苦参という植物は、根を噛むと眩暈がするほど苦いのだという。乾燥させれば漢方の生薬となり、解熱や鎮痛の効果を発揮するらしい。彼女はまだ、その植物を食べたことはない。だが苦参は己の名を気に入っていた。良薬は口に苦しという言葉も、ついでに好きな文句の一つであった。
 その名を贈ったのは、亡き母だった。名は体を表すようにと――それにして変わった名だったが――情を込めて娘に授けた。
 その話はいくらか前に長兄から聞いた。苦参は、子供の名にはまわりの人間の深い意図があることを、その時に知った。

 翌朝は雨が上がり、蒼穹(そうきゅう)であった。雨月は過ぎていなかったが、渇いた太陽が何もない空を駆けて昇った。
 苦参は、朝の報告で教壇に立つ先生の話をよく聞いていた。夜鷹と苦参の事を話すだろうと思われた。が、実際には先生は淡々と連絡事項を告げて、終わり掛けに思い出したように、
「夜鷹は昨日、階段で転んで怪我をした。皆、彼が動き辛そうにしていたら手伝ってやりなさい」
 と言った。
 後ろを振り向くと、夜鷹の顔は昨日より包帯が増えていた。

 その日、苦参は一日中夜鷹を観察していた。この頬の傷は苦参がやったのだと夜鷹が突然騒ぐことを危惧していた。
 球技の時間、苦参は飛んでくる球を腕で弾くたび、額の汗を拭うたび、大樹の下の長椅子に座っている夜鷹を垣間見た。彼は木の下に現れる幽霊のようだった。
 苦参は警察署の前をうろつく罪人のような気分だったが、実際には一日は普段と何ら変わりなく過ぎて行った。
 苦参は放課になると、人知れず夜鷹を学校の裏にある小さな竹林に呼びだした。竹はそれなりに密に生えており、校庭や道路からは彼らの姿は見えなかった。笹の葉の隙間から陽が差し込んで零れていた。涼しい風が苦参と夜鷹の真っ新(さら)な夏服を揺らした。
「なぜ私や他の奴に殴られたと言わなかったの」
 苦参はもはや侮蔑に近い半眼で夜鷹を見据えた。
 夜鷹は怪我のしていない方の頬を緩ませて笑んだ。
「別に、気にしてないよ。だから言わなかった。そのほうが、皆気持ちいいでしょう」
「私に恩を売ったつもり?」
「違うよ」
「安心させておいて、後で先生に告げ口するのね。確かにそうすれば、なんだか悲劇性が増すかもしれないわ」
「違うってば」
 夜鷹は強く断言した。
 苦参は静かに彼を見つめた。
 少し長めの、細い黒髪が束になってはためいていた。それがやけに似合っていた。白い腕が竹の青のなかにぼんやりと浮き出ていた。柳の枝のようにしなやかで、淡い立ち姿。――吐きたいほど女々しい恰好であった。
「夜鷹って、遊女の意味だったのね」
 苦参は言葉を風にのせた。
「あんたの母さま、街で花を売るんでしょう。本当は女の子を産みたかったのね」
 夜鷹はもう笑っていなかった。波の立たない湖畔を見つめるように、じっと苦参を見つめ返した。
 苦参の苛立ちはすっかり収まっていた。
「だから? 僕のことなんてどうでもいいでしょう」
「あんたの母さまはあんたを生むのを望んでいなかったのかしら。だから家では”いないこと”になってるんじゃないのかしら」
 夜鷹の小さな肩がびくりと震えた。苦参には真実を突いた手ごたえがあった。
「……そうだったら、苦参さんに何の関係があるの」
「何も」
「……苦参さんの言う通りだ。僕はあの家にいなくちゃいけないが、”居てはいけない”んだ。変な家でしょう。それに気付いて、面白かった?」
「別に」
 夜鷹は厳しい顔をしていた。
「僕に何をさせたいの。僕がどうしたら構ってくれなくなるの」
「別に、何もしてほしいなんて思ってないわ」
「うそだ。頬の傷は本当に誰にも言わないって約束するよ。これでいいでしょう」
「そう」
 苦参の素っ気ない返答に、夜鷹は一瞬、僅かに安堵した表情を浮かべた。
「気が済んだなら、僕はこれで――」
「待ちなさい――夜鷹」
 踵を返しかけた夜鷹は、また苦参と対峙する形となった。
「僕に構わないでくれないか」
 苦参は無視した。
「炭酸水って夏に飲むと美味しいわよね。今度ウチに飲みにおいでなさい」
「やめろ」
 夜鷹は叫んだ。
「構うなよ、僕に構うな。苦参さんのせいで、僕は台なしだ!」
 走り去ろうとした夜鷹の腕を苦参は強く掴んだ。
 反動で、夜鷹は苦参のほうに顔を向ける。
 苦参が何の表情も浮かべずに、ただ射抜くように見つめると、夜鷹は唇を歪めて笑おうとして――失敗した。夜鷹の瞳から涙が溢れた。
 苦参は腕を引っ張ったそのままの勢いで、夜鷹を抱きしめた。骨ばった、薄い肩を胸に押し付けた。苦参は彼の体温をよく感じた。夜鷹にも苦参の熱さが伝わっているはずだった。そうして、己の存在を思い知ればいい。
 夜鷹は余計にひどく泣いた。痣や傷が痛むのかもしれなかった。苦参を引きはがそうと弱々しく抵抗したが、苦参がそれを許さなかった。

「なぜ、あそこにいた僕に触れたの」

 苦参は答えなかった。
 代わりに、「好きよ」とうなじに囁いた。
 苦参は言ってから己に驚いたが、彼を包む腕は緩めなかった。
 夜鷹は泣きながら、僕に触れないで、と何度も懇願していた。
 苦参は遥か遠くに彼の声を聞きながら、空に向かって言の葉を高く投げた。
 

 夜鷹よ、なけ。


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